My Story マイ・ストーリー
誰もが自分の物語を生きている
木村 由美子さん
(きむら ゆみこ)
娘/萌実さん
(もえみ)
《知的障害を伴う自閉症》
※1「ひまわり学園」:知的障害児通園施設
※2 北九州市手をつなぐ育成会(親の会):知的障害のある人の自立と社会参加を促進する当事者団体
何かおかしい
3歳児健診の前くらいから、娘を見ていて何かおかしいなとは思っていました。人とコミュニケーションを取らないというか、とにかくずうっと一人遊びが出来る子で…。鏡に映った自分を見ているだけでも遊べるし、砂場で他の子と一緒になっても、全く興味を示さない。そうかと思えば、公園を急に全力で走り出して、全力で戻ってくる。そしてまた全力で走って戻ってくる。よく疲れないなあ…って思うくらい何度も。気になって色んな本を読んでみると、「目が合わない」という症状も確かにそうで、「親の後追いをしない」というのも当てはまりました。
3歳児健診では、私の方から小児科の先生に「ちょっと気になるところがあって―」と切り出しました。先生は、「いやあ、大丈夫ですよ。個人差があることだから」と言われた後で「でも一応、保健所の中に『言葉の相談室』というのがあるから行ってみる?」と紹介されました。早速娘を連れて行くと、今度は「『ひまわり学園(※1)』の外来に一度相談に行かれますか?」と勧められました。『ひまわり学園』を訪ねたのは7月か8月のことでしたが、そこで「児童相談所できちんと検査すれば、外来ではなく9月から通園できますよ」と言われたんです。「通園?ああ、やっぱりそうなんだ」とー。私としては、前々からおかしいと思って自分なりに調べていましたから、どこかスッキリしたというと変だけれど、原因がわかったことで、心配でたまらないという状態からは少し解放されたようにも思いました。ただ、やっぱりショックはショックでしたね。これからどう育てていけばいいのか全く分からないし、皆さんそうでしょうけれど、落ち込みましたよ。
まず、お母さん自身が落ち着くことに
ひまわり学園は当時母子通園で、私も一緒に通っていました。朝、お弁当を持って一緒に行って、園に着いたら子どもとは別れて、親は家に帰ったことにするんですが、残って園の中の別の場所で学習会に参加していました。そこで、園長先生から、障害についてのお話やアドバイスをたくさんいただきました。親からの質問にも的確に答えてくださったので、随分とそこで知識を持つことが出来たし、救われましたね。当時先生がおっしゃっていたのは、知識とか技術を教えるよりも、一番大事なのは情緒が安定したお子さんに育てることだと。そのためにはどうすればいいのかと言うと、お母さん自身が落ち着いていることだと…。心配なこともすごくたくさんあるけど、それは子どもにはあまり見せずに、ゆったりと接することが大事だと最初に教わったので、子どもに対してあまりキリキリせずにいられたのかもしれません。
私が今、事務局長を務める育成会(親の会)(※2)のことも、ひまわり学園を通して知りましたし、お母さん同士、子どものことについて話せたのも良かったですね。ダウン症のお子さんのお母さんたちは、お子さんが生まれた時からという経験の差もあって、私たちよりも障害受容が出来ているようでした。まだまだ揺れ動いている私たちにとっては良いお手本で「ああ、あんな風にどっしりと構えていられるんだ」「自分の子どもの事を笑って話せるようになるんだ」と思えたことはとても励みになりました。「私もいつかあんな風になれるんだろうか」って思っていましたけど、いつの間にかなってました(笑)
他の子どもと比較しないことも学びました。昨日の自分の子と今日の自分の子を比較して、今日出来たことを褒めましょうって。昨日と比べて出来たことを「わあ!出来たね!」って喜ぶ。私が喜ぶと、子どもも喜ぶ。怒ることなんて、何もないんですよね。
ひまわり学園には3歳半から6歳まで通いました。最初に子どもを連れて見学に行った時は、子どもたちが皆じっと椅子に座っているのが信じられなかったんですよ。「うちの子も座っていられるようになるのかしら」って。でも座っていられるようになって、子どもなりに集団生活にも慣れていって…凄いなあって思いました。
ひまわり学園を卒園する数か月前に就学相談があって、養護学校(現・特別支援学校)への入学を知らせる通知がきました。普通学校の通級学級へ進んで、他のお子さんについていけなくて苦労するより、私もそれで良かったと思いました。
養護学校の12年間、私はPTAで活動しました。子どもに障害があるとわかった時点で働くことは諦めましたし、当時は放課後等デイサービスもありませんでしたから、仕事が出来ないお母さんが多かった分、PTAが活発だったんですよ。色々ありましたねぇ…(笑)私も「子どものためだ」と思ったら「ここで言わなきゃ」と黙っていられない方で(笑)でも、仲間と一緒に活動するPTAも、それはそれで楽しかったです。
事業所、そしてグループホームへ
学校を卒業する頃になると、娘はいくつかの事業所に実習に行きました。親としては、家の近くの事業所に通ってもらいたかったけど、選択は娘に任せました。結局、実習でクッキーを作ったことが決め手になって、家から車で30分程の事業所に行くことになりました。もっと近くに事業所はあったんですけどね(笑)
クッキー生地を伸ばして型を抜いて、膨らむ分を見越して間隔を空けて、天板に綺麗に並べるという作業は、自閉症の特性にも合っているのかもしれません。娘も事業所を嫌がるようなことは、これまで一度もありません。ただ、30代半ばともなると、立ち仕事はちょっと疲れるようですね。そろそろ、座ったまま出来る作業に
変えていただく時期かもしれません。
娘は今、グループホームで暮らしています。月曜から金曜まで、グループホームから事業所に通い、週末には帰ってきます。グループホームに移ったのは、娘が27歳の時でした。ずっと親とだけで暮らしていたら、私に何かあった時、本人が可哀想かなという思いがありました。一人娘ですし、親なき後を考えたら、早いうちから他の人との生活にも慣れておかないといけないなと思っていたところに、新設されたグループホームの募集がありました。たった5人の募集だったので、まず無理だろうと思いながらエントリーすると、あっさり「入れますよ」と言われてしまって、内心「どうしよう!」って、ものすごく悩みました(笑)
でも、まずは娘が新しい場所で暮らせるように工夫することから始めました。家で使っているものと同じ枕を買ったり、テレビの録画が好きなので、家にあるものと操作が全く同じ録画機を買って慣れさせたり。細々と新しく買い揃えたものは、隠して気づかれないようにしていました。そして、全ての荷物をホームへ運び入れたところで娘に見せに行きました。ショートステイの経験はあったので、グループホームとは言わず、「今度のショートステイのお部屋は、あなた専用ですよ。あなた専用のお布団があります。あなた専用のテレビがあります」って。そうしたら、新しいし、いろんなものが揃っているから気に入ったみたいで(笑)最初は1泊して帰る。次は2泊して帰る…そんな風に少しずつ慣らしていくと、月曜日から金曜日まで泊まれるようになりました。
子どもの後ろ姿を見守って
「寄り添う支援」とよく耳にします。伴走する、前に出ず横に寄り添うイメージでしょうか。でも、私くらいの年齢になると「子どもの後ろ姿を見守る支援」になるのかなと思います。子どもが一人で歩いている姿を後ろから見守って、真っ直ぐに歩いていたらそれでいい。いつまでも一緒にはいられませんから…。実際、娘の後ろを追いかけることも多くなりました。若い人とは歩幅が違います(笑)
この先も、「もう手が離れて安心」ってことはないと思うんです。多分私は、死ぬまで心配しながら、死んだ後のことも心配しながら死んでいくんでしょうね(笑)
これまでも、全神経を子どもに注いできましたが、そのことに後悔はありません。娘がいたことで、ちょっと人とは違う良い経験をさせてもらいましたし、私は、子どものための人生で良いと思っています。
ずっと変わらない私の望みは、娘が平穏に、にこにこと穏やかに暮らしてくれることです。たとえ私がいなくなったとしても、あまり悲しまないで、変わらず元気で笑っていてほしいと思います。
「ああ、もう大丈夫」と思えるまで、悩みは尽きないと思います。「笑えるようになるのかしら」って―。
育成会にお話に来ませんか?
みんな「笑って」お話しますよ。
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