My Story マイ・ストーリー 誰もが自分の物語を生きている
村田 聡子(むらた さとこ)さん
《左下肢弛緩性麻痺 ひだりかししかんせいまひ》
体育は見学、運動会は「本部テントの下」
1歳2か月でポリオ(急性灰白髄炎(きゅうせいかいはくずいえん)/小児麻痺(しょうにまひ))に感染し、左足に麻痺が残りました。幼稚園までは結構歩けていたのだと思いますが、小学校に上がって、短下肢(たんかし)装具(膝(ひざ)から下の装具)を履くようになりました。高校は少し遠くて、通学路に坂道もあったので、長下肢(ちょうかし)装具(腿(もも)から下の装具)に変えて今に至ります。装具を履けば、日常生活に支障はありませんが、長距離を歩くとなるとT杖(ティーづえ)や車いすが必要です。
小学校、中学校、高校と普通学校に通いましたが、体育の授業はいつも見学でした。唯一、参加できたのはプールの授業。身体が浮いて自由になれるから、プールの授業は好きでしたね。でも、それ以外は全て見学でした。
小学校4年生の時ですが、体育でポートボールの授業があって、先生が私も参加させようと「ガードマン(ゴールマンの下に立って敵のボールを阻止する人)をしてもらったらどう?」とクラスメイトに提案してくれたことがあります。でも、私の背が低かったのもあって、私が入ると負けるからって、チームに入れてもらえなかったんですね。根に持っているわけじゃないけど(笑)、いまだに覚えているってことは、結構ショックだったんでしょうね。
運動会も当然のように「本部テントの下」でした。でも、それでどうこうって、当時は思わなかったですね。なんとなく子ども心に、「こんなものだ」と悟っていたのかもしれません。もし私が先生なら、そういう子がテントにいたら、放送を担当してもらうとか、何かしらの形で参加させるのに…って、今なら思います。ただ、当時は子どもの数も多かったですから、そういう配慮は出来なかったのかもしれません。
私たちの楽園
小学校4年生の1月から5年生の6月までの半年間、肢体不自由児施設の「足立学園(あだちがくえん)」(現・北九州市立総合療育(そうごうりょういく)センター)に入所しました。「子どもはこれから成長していくから、足の変形は今のうちに直していた方がいい」と、装具を作る技師さんに勧められ、手術とリハビリが出来る足立学園への入所を、母が決断したのです。
親との面会も、帰宅が許されるのも月に1回という規則でした。学校の分校機能もあって、1クラス5人くらいの教室でした。当時はポリオや脳性麻痺(のうせいまひ)の子どもが多く、障害程度も軽度(けいど)から重度(じゅうど)まで様々でした。それまで私は、障害のある人たちを見たことがなかったので、最初は驚いて、ちょっと怖かったのを覚えていますが、3日も経つとすっかり慣れて、それからはもう、毎日が楽しくて楽しくて!だって毎日修学旅行なんですよ(笑)。「もう退院したくない!」って思ってました。
食事もお風呂もリハビリも生活全てがみんな一緒で、お互いの辛いところも見ているわけでしょう?もう家族みたいなものなんです。それこそ運動会もありましたが、麻痺があっても、装具を付けて走る子、車いすで走る子、みんなそれぞれの形で走っていました。速くても遅くてもいいし、体裁なんて誰も気にしないし、気にしなくていい。だから、みんな本当に楽しかったんだと思います。私たちにとって「楽園」だったんでしょうね。子どもの頃の思い出は、あの頃にギューっと詰まっている気がします。
車いすテニスで走り回る!
私たちの様子を見て、この繋(つな)がりを、子どもたちが退園した後も継続していかなければと思われたのでしょう。足立学園の当時の施設長だった高松鶴吉(たかまつ つるきち)先生が、『むつみの会』という同窓会を立ち上げて下さいました。足立学園に入所していた多くの子どもたちや職員(看護師、保育士等)が『むつみの会』に参加し、一緒にキャンプに行ったり、大人になってからも同窓会をしたり、先生の還暦祝(かんれきいわ)いに集まったり…そんなつながりが、今も続いています。小学校4年生からかれこれ50年以上の付き合いですが、みんな子どもの頃のまんま(笑)。姉妹(きょうだい)みたいに、お互い下の名前で、呼び捨てで呼び合っているから、知らない人はちょっとびっくりするみたいです。
『むつみの会』には、車いすバスケや車いすテニスを楽しむ活発な友だちもいて、20年前、彼らの話を聞いて「私もやってみたい!」と、始めたのが車いすテニスです。テニスの時は装具を外して、テニス車(しゃ)(テニス用の車いす)に乗っています。学生時代、体育の授業に参加していないから、ボール投げさえしたことがなくて、最初はボールがどこに落ちてくるのか、その距離感が全く掴めなくて苦戦しました。でも、車いすで走り回れるでしょう?とにかくもう「動ける!」っていうのが、すっごく楽しくて!家系的にも、スポーツマンタイプじゃないのは確かなんですけど(笑)、走り回れる楽しさにすっかりはまって20年―。大会に出るほどの技術も力量もありませんが、趣味として今も楽しく続けています。
仕事、結婚、子育てを経て
今は実家の仕事を手伝っていますが、結婚前は神奈川県で知的障害者更生施設(こうせいしせつ)の指導員として働いていました。大学は法学部(ほうがくぶ)だったんですが、足立学園での経験から、福祉関係の仕事がしたい、現場で働きたいという思いがあって、卒業後にもう1年、福祉系の大学に行きました。
でも、就職はすんなりとは行かなかったですね。足が悪いので、精神障害の人や多動児を追いかけることが出来ない、という理由で断られたりもして…。
結局、対象が比較的高齢者で、追いかけるようなことが少ない施設が受け入れてくれました。確かに、追いかけたりすることはなかったのですが、ずっと歩き回ったり、逆に立ちっぱなしだったり、泊まりもあったりで、それはそれで大変でした。大変だったけど、楽しくもありました。精神障害に対する理解が、少しかもしれませんが深まったと思います。施設では2年間働きましたが、結婚を機に地元に戻りました。
その後3人の子どもにも恵まれ、子どもたちが小さなうちは家事に専念していました。生活や子育てに特別な不便さは感じませんでしたが、子どもが大きくなるにつれて、「お母さんの足が悪いことで、いじめられないか」という危惧が出てきました。私が子どもの頃は、歩いているだけで見られたものだし、参観日や運動会に行くたびに「お前のお母さん…」って言われるんじゃないかって心配していました。でも、実際は全くそんなことはありませんでした。
社会的な理解が広がったと言えるかどうかは分かりませんが、昔よりは障害のある子どもと、ない子どもが接する機会も増えているようですし、障害の捉え方も変わってきているのかもしれませんね。私自身の考え方も、少し変わりました。先ほど「見られていた」って話しましたが、私も視覚障害の人や手話を使っている人を見かけたら、その人を見ていることに気づきます。私が障害者だからといって、障害のある人を「見ない」ってことはないんです。「見る」のは自然なことだし、見ていたら、その人が戸惑っていたり困っていたりした時に、気づけるでしょう?私もどこかでこけたりしたら、見ていた人が助けてくれるでしょうし、見られることも見ることも、それ自体は別に悪いことじゃないんだと、大人になって思うようになりました。
今はもうすっかり大人になった子どもたちに、私の事でいじめられたらどうしようと、当時心配していたことを話したことがあります。子どもたちは「はぁ?」って感じでした(笑)。その時に思いました。「子どもを信じていたらいいのだな」と。もし、私の足のことでいじめるような子がいたとしても、子どもたちはきっと「はあ?この人何を言いよるん?」と、はね返したでしょう。そんな風に育ってくれたのは、ありがたいなと思います。
チャンスを見逃さないで
私の人生の分岐点は間違いなく足立学園です。小学校4年生から現在までの私の基調(きちょう)、あの時代があるから今があると言っても過言じゃありません。母の決断がなければ、今の友だちにも会えなかったし、車いすテニスもしていないでしょう。
訪れるチャンスを見逃してはだめですね。チャンスを見逃さないためには、努力をしなくちゃいけない。障害があっても、それを理由にチャレンジするチャンスを逃さないでほしいなと思います。
私も、なすがままにポジティブに、この先もとにかく体力が続く限り、車いすテニスで走り回っていたいです。