My Story マイ・ストーリー 誰もが自分の物語を生きている
簗 昭子(やな あきこ)さん
《音声言語障害》
先生、ちょっと待ってください
平成2年3月でした。半年くらい前から、なんだか喉がすっきりしない、何だろう?と思っていたので耳鼻科を受診しました。処置をしてもらうと、なんとなく良くなったような気もして、1か月、2か月と過ぎたのですが、やっぱりすっきりしない…。病院の先生に言うと、「あなた神経質になり過ぎているよ」って―。
だけど半年ほど過ぎた頃、物が喉を通りにくくなってきました。病院に行くと「いい薬を出しましょう」って、カプセル剤が処方されました。喉を通るわけないんです。さすがに「これはちょっと違うかも」と思って、別の内科を受診しました。
胃透視(いとうし)をした翌日です。「大きな病院を紹介するからすぐに行ってください」と言われました。ちょうどその頃、息子は高校3年生で大学受験を控えていました。娘は大学を卒業して就職するという時期で、家の中はバタバタしていました。「先生、もう少し先ではダメですか?息子は大学受験で大変な時で…」と言うと、「そんな事を言っている場合じゃないよ。食道ガンかもしれないからすぐに行って」と―。それまで私は病気らしい病気をしたことがなかったので、まさかと思いました。でも、紹介された病院で胃カメラ検査をしようとしたら、もう胃カメラも通らなくなっていて…。「明日入院してください」と先生に言われた時にはびっくりして「えぇ!? いやいや、それはちょっと待ってください」って―。
「ガンですか?」
「検査してみないとわからない」
「入院はどのくらいですか?」
「4か月かな」
そんなやり取りで、これはちょっと深刻かもしれない。待ったなしなのだな…と感じました。
喉頭(こうとう)と食道を切除
色んな検査をしている間も、私はまだどこかで「間違いでした」と言われるのを待っていました。でも結果はガンでした。しかも喉頭と食道の間にできていたのでどちらも全摘(ぜんてき)することになって、先生に「声は諦めてください」と言われた時は、もう言葉もありませんでした。ただ、そんな中でも気になるのは子どもたちのこと―。息子は受験で、合格してもその後の準備があります。娘も就職が決まったとはいえ、学校を卒業して初めての仕事です。私が居てやらないといけないことが山ほどあります。でも、もうどうしようもないですよね。
手術には、家族が皆来てくれました。朝の9時ごろの麻酔から夕方の6時まで居たというから、長かったでしょうね。術後もICU(集中治療室)から5日間出られませんでした。手術では喉頭と食道を切除しました。食道が無くなったから、胃を上まで持ってきている状態です。すぐ胃があるのだから、いくらでもポンポン食べられそうなものだけど、ちょっとずつ口に入れて、それが下がってしまわないと次が入らないんですよ。術後、15、6キロは痩せたでしょうか。それまではね、痩(や)せたい、痩せたい、なんで食べてもないのに太るんだろ、なんて言っていたんですよ(笑)
呼吸は喉に開けた気管孔(きかんこう)を通して行うので、鼻や口を通りません。だから匂いもほとんどわからなくなりました。気管孔に痰(たん)が詰まると呼吸困難になるので、吸引が必要です。入院中、それを知らずに我慢して、とても苦しい思いをしました。また私の場合、舌も1か月くらい動きませんでした。舌が動かないと、咀嚼(そしゃく)が出来ないんですね。食べるのも飲むのも、小鳥がついばむみたいになって「このままじゃどうしようもないな」と思って、手鏡を持って毎日毎日舌の運動をしていたら、少しずつ動くようになりました。
入院生活は丸3か月に及びました。入院中一番嬉しかったのは、息子が大学の合格通知を持ってきた時ですね。私の病気さえなければ、その年の3月は我が家にとって良い事ばかりでした。でも、結果的には家族の他の誰が病気になるより、私で良かったと思うんですよ。これが娘や息子だったら…と思うとね。
喋(しゃべ)れない生活とは…
ようやく退院はしたものの、声が出ない、喋れない生活は、想像以上に大変でした。スーパーに行けば黙っていても買い物は出来るけど、お肉屋さんや魚屋さんで選びたい時もありますよね。人がまだ少ない朝早くを選んで行くのだけど、店の人はまだ準備に忙しそうでお客が一人くらい通っても目もくれない。だけど「すみません、お願いします」が言えないから、その人が何かの拍子でこっちに気づいてくれるまで、その辺を行ったり来たり。そのうち、涙が出てきたりしてね…。ある時、八百屋さんできれいな葉っぱのついた立派な大根を見つけました。大根葉も使いたいけど、そのまま持って帰るのは大変。八百屋さんに「持って帰りやすいように切って」って言いたいけど伝わらない。しまいには面倒くさそうにあしらわれて、すごく悲しくなりました。電話を取ることが出来なかったのも辛かったですね。とてもお世話になった伯母が亡くなった時も、親戚は何度も電話をくれるのに、わかっていても受話器が取れない…。
今だったら、発声方法について病院も情報をくれると思いますが、当時の病院の先生には「そんなのは先の話。命が助かってこうして元気でいられるのが一番でしょう」と言われました。そうはいっても、普通に生活をしようとしたら、辛いこと、悲しいこと、悔しいこと、情けないことがたくさんあるんですよね。でもね、家族には一切話しませんでした。これ以上心配をかけられない、涙も見せたくないって思っていました。
『北九州創声会(そうせいかい)』(※)との出会い
退院して2年が経つ頃、友だちが「喋らなくても出来るから」と、カルチャーセンターのパッチワーク教室に誘ってくれました。私も、喋れないことを苦にしていたら、この先、生きていけないと思って思い切って通うことにしたんです。もともと手先を使うことは好きだったし、作っている間は夢中になれて楽しかったですね。
ある時、センターに展示された水墨画に魅了されて、今度は水墨画を習い始めました。数年のうちに先生は何人か代わったのですが、最後に教えてくださった先生が「私の友だちがあなたと同じような病気をして、『創声会』というところで発声の指導をしているから行ってみなさい」と言われたんです。それが『北九州創声会』との出会いでした。退院して6年目のことです。
創声会に行ってみると、驚きました。皆さんとっても元気がいいんです。明るいんです。力強いんです。こんな風になっても、そんなの関係ないみたいに過ごしているのを見て、(うわぁ…)って―。それまで私は、自分が世の中で一番悲しい人間みたいに思っていたのだけど、なんだかね、目の前がパーって開(ひら)けて、希望が湧いてきたんです。
(※北九州創声会:喉頭摘出者の発声訓練・指導を行っている)
踏み出す勇気
私の場合は食道がないので、EL(電気式人工喉頭)の発声方法を学びました。最初は要領が分からなかったけど、「こんにちは」とか「元気にしてる?」くらいは言えるようになって、関西にいる妹に電話をかけてみたんです。そしたらね、電話の向こうで妹が泣くんですよ。嬉しいことなんだから泣かないでよって言っても…。その時に思いました。私みたいに発声訓練のことを知らずに過ごすような人がいないようにしたいって。もっと早く知っていれば、どんなに生活が違っていたでしょう。
それに、勇気を出して自分から踏み出すことも大事ですね。パッチワークに行ってみようって踏み出した、あの一歩が無ければ、水墨画にも創声会にも繋がっていませんでした。障がいへの理解も同じで、自分から「こうなんですよ」と発信することも大事ですよね。私もずいぶん強くなりました。それは仲間に出会えたからです。
どうか、障がい者だからと特別に考えずに普通に接して頂けたらと思います。そして出来れば少しだけ障がいを理解して優しく接して頂けたら―私たちはその優しさを、きっと何倍にも幸福に感じると思います。