My Story マイ・ストーリー 誰もが自分の物語を生きている
矢野 能嗣(やの よしつぐ)さん
《聴覚障害》
僕だけ聞こえない?
耳は生まれつき聞こえません。4歳か5歳の時かな?保育園で、補聴器を付けているのが自分だけだって気づいて、「何で?他の子はつけてない。何で僕だけ?」って―。その時に、初めて自分だけが聞こえないんだと知りました。ショックでしたね。それは覚えています。
幼少期に、小倉みどり園(難聴幼児通園施設)で健聴者(けんちょうしゃ/聞こえる人)の口の動きの読み取り方や発音(口話法:こうわほう)を学び、小学校から大学までは、普通学校に通いました。周りはみんな健聴者という環境です。人見知りで、特に女の子とは話せなかったですね(笑) 聞こえないから、僕のこと面倒くさく思うんじゃないかって…マイナスに考えていました。
小学校1年の時に兄の影響でサッカーを始めてからは、サッカーを通して友だちも増えました。とにかくサッカーが大好きで、有名選手も排出した地域のクラブチームに入って、5年生の時にはレギュラーも獲得しました。
ある試合で挨拶に並んだ時です。相手チームの選手が僕の補聴器を見て馬鹿にしたんですよ。すごく落ち込んで、泣いて母に訴えました。その時の母の言葉は、「聞こえなくてもサッカーは出来ます」―でした。そこからまた僕は、ひたすら練習に励みました。その後、再びそのチームと対戦した時には、ゴールをたくさん決めて、ボコボコにしてやりましたよ(笑)
以来ずっとレギュラーとして試合に出て、6年生の時には背番号10番(※エース番号)をもらいました。ゴン中山やロナウジーニョに憧れて、彼らのプレーをマネしながら上達していったように思います。得意なドリブルをみんなに見てもらえるのは嬉しかったですね。「俺を見ろー」です(笑)
小学、中学、高校とサッカーを続け、ニューウェーブ北九州(現:ギラヴァンツ北九州)のユースU-18(アンダーエイティーン)にも入りました。プロを目指して、あるチームのテストを受けましたが、残念ながら不合格でした。でも、チャレンジして良かったと思っています。ほんとにいろんな経験が出来ましたから。
デフサッカーとの出会い
大学に入ってからもサッカーを続けていたのですが、3年生の時に足に大きな怪我をしてしまいました。挫折を味わって、もうサッカーを諦めようとしていた時、1年生で入ってきた後輩から、ろう者のサッカー(デフサッカー)のチームがあることを聞いたんです。すぐに福岡ケルベロスというデフサッカーチームの試合を観に行きました。感動しましたね。それまで僕はずっと聞こえる人たちの中でサッカーをやっていたから、聞こえないサッカー選手は自分だけだと思い込んでいたんです。初めてろうの人たちがサッカーをしているのを見て、もう、本当に嬉しくてね。その時に僕、決めたんですよ。「手話を覚えてサッカーの先生になる」って。それが手話と出会ったきっかけでもあります。手話を覚えてからは、人見知りの性格が一変しました。オープンになって、明るくなって、サッカー以外の友だちも増えていきました。
デフサッカーを広めたい
健聴者のサッカーを経験してきた僕には、当初デフサッカーの練習は遊びの延長のように見えました。自分が経験してきた練習は、とても苦しく厳しい練習でした。「健聴者はもっと苦しい練習をしているんだぞ。全国大会を目指すんじゃないのか?」と、選手たちに話したら「厳しく指導してくれ」って。それから僕はデフサッカーの鬼コーチになりました(笑)
全国ろうあ者体育大会のサッカーに福岡代表として出場した時には、全国から集まったたくさんのろうの選手たちを見て嬉しくて興奮しました。最初の年こそ悔し涙を流しましたが、厳しい練習が実ってその後2回優勝を経験しました。
僕は今もデフサッカーのコーチ・監督として、4つのチームに関わっています。その中の一つ、FCサンブリエバレインは、中国サッカーリーグFCバレイン下関の下に、デフサッカーチームとして僕が立ち上げたんです。これからの子どもたちに、いいサッカー環境を作りたくて。将来的には、このチームで日本代表を目指したいと思っています。
僕自身、大学までデフサッカーを知らなかったし、もっとデフスポーツを広めたいと思って、23歳の時に障害者スポーツ指導員の資格を取り、障害者スポーツセンター「アレアス」で始めたのが「手話de(で)フットサル」です。聞こえない子どもはもちろん、健聴の子どもも大人も一緒に、手話でコミュニケーションしながら楽しくフットサルをしています。聴覚特別支援学校に通う子どもたちも、卒業すれば厳しい社会が待っています。その時のためにも、健聴者とのコミュニケーションに慣れていてほしいという思いもあります。今年でちょうど10周年。あっという間ですね。
新しい自分を探して
手話deフットサルは完全ボランティアで、必要経費は仕事で貯めたお金で賄っています。今は仕事も順調ですが、転職は4回目かな。最初の会社は事務でした。僕もいけなかったんですが、分かっていないのに分かったフリをして間違いが多かった。口話では全部は読み取れないんですが、聞くことにも疲れてしまって…。会議になるともう、何を言っているのか分かりません。うんうんって頷くしかない。結局その会社を辞めて、新しい自分を探したくて家を出て、下関で仕事を見つけました。でも下関に友だちはゼロ。仕事上の付き合い以外何もなくて。ある時、前から気になっていたカフェバーに、勇気を出して行ってみると、優しいオーナーさんとすぐに打ち解けました。聞こえないこと、サッカーをしていること、いろんな話をしたり、隣にいたお客さんに手話を教えたり、そういう時間がすごく楽しくて、何度も通うようになりました。そのうち、手話に興味があるという若い女性のお客さんにも出会い(笑)…ついにはそのお店で手話教室を開くことになりました。そのことが口コミで広がると、PTAをしているママさんから「小学校でも教室をしてほしい」と頼まれて、月に1度、小学校で手話を教えることになりました。今では高校でも年に2回講演に呼ばれ、大学の手話サークルでも教えています。そんなわけで、下関にもたくさん友だちができました。
活動の根底にあるもの
僕は2013年にブルガリアで開かれたデフリンピック(※)に、デフサッカー日本代表チームのアシスタントコーチとして出場しましたが、帰国した僕に母が言った言葉があります。「みんなのためにやることは、自分のためになる」―僕の活動の根底にはいつもこの言葉があります。
昔、聞こえないことで母を責めてしまったことがあります。申し訳ないことをしたと思います。僕は、今の自分が好きです。聞こえないことは不利ではない、僕にも出来るって自信がありますから。
障害がある人もない人も同じ人間で、そこに差はありません。サッカーも、障害があるとかないとか関係なく、みんなが楽しくやっている姿を見るだけで、僕は幸せです。
人生は楽しまなきゃ。どんなことがあっても。子どもたちには、目標に向かってチャレンジしてほしいと話します。失敗したっていい。やってみないと得ることができないものがありますから。
下関からサッカーで世界を目指すこと、障害のあるなしに関係なくスポーツを楽しむ場所を作ること、みんなの憩いの場となる手話カフェを作ること…。夢に向かって、僕もチャレンジを続けます。
デフリンピックは、2025年には日本で開催される予定です。大きな意味があることです。みんなに注目してほしいし、頑張っている聞こえない人たちがたくさんいることを知って、ぜひ応援してほしいですね。
※デフリンピック競技大会:4年に1度、世界規模で行われる聴覚障害者のための総合スポーツ競技大会。現在コロナの影響により開催日程には変動があります。