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My Story マイ・ストーリー

しんしょう協会について

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柴田 泰博(しばた やすひろ)さん

誰もが自分の物語を生きている


柴田 泰博さん

(しばら やすひろ

 《肢体障害》


 昭和23年4月、愛知県一宮市(いちのみやし)にて誕生しました。

 満1歳になり、一人歩きが出来始めたころ原因不明の 高熱に見舞われました。数日が経ち、高熱も収まり回復 したようでしたが自分から立とうとはしません。母親が抱きかかえて立たせてみたものの、両足に力が入らず立つことも歩くことも出来ませんでした。その後両親はあちこちの医者に診せましたが、有効な治療法も見つからず、松葉杖での生活になりました。


 昭和30年に名古屋市内に肢体不自由児施設が開設され入所を申し込みましたが、すぐには入れず2年後の小学3年時に入所となりました。肢体不自由児施設は整形外科医がいるリハビリ機能をもつ病院であり、かつ児童福祉法に基づく児童福祉施設で、養護学校も併設されていて義務教育が提供されていました。親元離れての生活は当初は淋しいものでしたが、多くの仲間がいてすぐに環境にも慣れていきました。

手術とリハビリの効果もあり、松葉杖から解放されて補装具で歩けるようになりました。


 2年間の施設生活を終えて自宅に戻り、地元の小学校に復帰しました。そして中学、高校と進み、いよいよ大学へ進学することとなり、自宅から通学可能な大学を選びました。それは名古屋市(なごやし)昭和区(しょうわく)にある日本(にほん)福祉(ふくし)大学(だいがく)でした。名鉄と市バスを乗り継いで通い、無事4年間で卒業することが出来ました。福祉関連の仕事に就きたく、先輩を頼って大学3年時に小倉にある『九州(きゅうしゅう)労災(ろうさい)病院(びょういん)』にて実習させていただきました。それが縁で『足立(あだち)学園(がくえん)(北九州市立総合療育センターの前身)』を知ることとなり、大学4年時には実習をさせていただき、幸運にも就職への足掛かりを掴むことになりました。


 昭和46年4月、足立学園に医療ケースワーカーとして採用されました。見知らぬ土地で友人もいないままのスタートになりましたが、仕事を通じて接点のあった『親の会』や『北九州あゆみの会』の皆様には、いつも励まされてきました。

 その後、あゆみの会に青年部が発足し同時代の若者たちとの出会いがあり、実行委員会方式での市民向け映写会やコンサート等を開催してきました。


 昭和52年9月、奈良県にあるたんぽぽの会が始めた『わたぼうしコンサート』が北九州にもやって来ました。当時の小倉市民会館は観客でいっぱいになり、成功裏に終わりました。実行委員会は解散しましたが、事後団体として『福祉の風土づくりを進める会』が結成され、重度障害のある方達とともに『街に出よう運動』を開始しました。障害のある者とそうでない者との協働を日常的に、しかも継続的に支えるため、新しい組織が必要になりました。


 昭和57年5月『北九州市障害福祉ボランティア協会』が発足しました。コンサート等の開催は一過性に過ぎず、持続的な活動を担保できる組織の存在が不可欠であると共通認識されました。障害福祉と冠がついた団体は当時とても珍しい存在でした。民間性や当事者参加を謳った『大阪ボランティア協会』がある大阪まで数人の仲間で訪問したこともありました。


 昭和62年、社会福祉士及び介護福祉士法が制定され国家資格としてソーシャルワーカーの身分が位置づけられました。日本福祉大学を卒業した私ですが、社会福祉系大学の卒業生に一切の特例もなく改めて2年間通信教育を履修しました。履修過程の中でスクーリングが義務づけられていて、東京にある全社協ホールには全国からおよそ300人の受講生が集まりました。そして通信教育を卒業したのち、年1回の国家試験を受け合格することができました。平成4年の春のことでした。

 満58歳で『北九州市立総合療育センター』を退職しましたが、社会福祉士という資格を得たことで、退職後すぐに新しい仕事に出会うことが出来ました。それは全国各地の福祉事務所保護課で実施されていた『退院促進支援事業』でした。具体的には、生活保護を受給していて長期に入院している患者でおおむね症状が落ち着いてきている方の退院支援の仕事でした。本人の希望と社会の受け皿とのマッチングが必要で、居住施設や就労施設など社会資源の拡充こそが急務であると感じました。


 おわりに、北九州市身体障害者福祉協会との出会いに触れたいと思います。

 小倉北区大門(だいもん)にある障害者福祉会館に昔から出入りしていたので、会館内に事務所を置く身障協会のことは知ってはいましたが、傷痍(しょうい)軍人(ぐんじん)の人たちの団体と勝手に思っていて当時は全く接点がありませんでした。


 平成21年8月に、(現 竹田理事長の誘いを受け?)、身障協会の理事に推挙されました。その頃すでに身障協会は東部と西部の二つの障害者福祉会館の指定管理者となり、その管理運営を担っていました。事業体として事業運営する中、障害者当事者団体としての役割もあり、どのようにバランスをとっていけばよいのか、暗中模索の毎日でした。特に平成23年8月から理事長に就任した後は、日本身体障害者団体連合会(日(にっ)身連(しんれん))や九州身体障害者団体連合会(九身連(きゅうしんれん))そして政令指定都市身体障害者福祉団体連絡協議会加盟団体との交流も盛んになりました。また、平成26年度からは、九身連、政令市の福祉大会などを身障協会が担当、地元開催するなど団体としても毎年多忙を極めました。そして6期12年、身障協会が50周年の節目を迎える2023年6月に理事長を退任しました。


 最後になりますが、身障協会は50年という半世紀の節目を迎えました。

この50年を振り返り、これからの身障協会を会員及び職員の皆さん一人ひとりの知恵と熱意で盛り立てていきましょう。


ここまで本文です。

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