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My Story マイ・ストーリー

しんしょう協会について

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My Story マイ・ストーリー

▲安村 佐代子(やすむら さよこ)さん

誰もが自分の物語を生きている


安村 佐代子さん

(やすむら さよこ

 《内部/腎臓機能(じんぞうきのう)障害》


学校検尿で引っかかる

 

 小学校1年生の時、学校の検尿で引っかかり、検査入院で慢性(まんせい)腎炎(じんえん)と診断されました。母が言うには、小さな頃からよく高熱を出しては入院していたそうですが、点滴しながら熱が下がるまで安静にさせるための入院で、特に大きな検査はしていなかったそうです。どこかで尿検査でもしていたら、もっと早くに分かったのかもしれませんね。とにかく、入院が必要なほどひどい高熱が続くことはよくあったようです。

 腎臓病(じんぞうびょう)は、一般的に塩分制限や安静が必要な病気です。小学校1年生の1年間は、給食ではなく母の手作り弁当を持って行ってました。自分だけみんなと違ってお弁当というのは、子供(こども)心(ごころ)に非常に辛(つら)かったです。薬は1、2年は飲んでいましたが、その後は特に体の不調もなく、普通どおりの生活を送っていました。

 スポーツが好きで、中学校では女子バレーボール部に入り、体育のマラソンも普通に走っていました。でも、中学2年の時にまた高熱が出て病院に行くと、先生から「腎臓が悪いし高熱も出るので、扁桃腺(へんとうせん)の摘(てき)出(しゅつ)手術をしましょう。腎機能が低下しているから、部活は辞めてください」と言われました。選手生命は絶たれましたが、みんなを支えるために何かできないかと思い、マネージャーへと転向しました。

 扁桃腺を摘出してからは、不思議なくらい全く熱が出なくなリました。今日に至るまで、感染症に一度もかかってないんですよ。


出産は無理です

 

 幼少期から病院にはよくかかっていましたが、その度に看護師さんにはとても良くして頂きました。病気の最中(さなか)、優しい看護師さんの笑顔には本当に癒されましたし、私も患者さんの役に立ちたいと思い高校は看護師になるための学校へ進学しました。これは、自身の腎臓病について学ぶきっかけにもなりました。

 幸い腎臓も落ち着き、高校3年間を無事に修了しました。そして准(じゅん)看護師の資格を取得し、その後専攻科へ進んでさらに2年間学び、晴れて看護師になり今に至ります。

結婚は22歳の時でした。お付き合いを始めた当初、主人のお母さんからは「腎臓病の人をお嫁さんにもらったら、いずれ人工(じんこう)透析(とうせき)になって苦労するから」と、結婚を反対されました。私の母も「腎臓病の娘で申し訳ない」と。でもその時、お義父(とう)さんが「自分たちが結婚するわけじゃない。息子の思うようにさせてやったらどうだ」と言ってくれたんです。

 結婚後も、私としては普通に、元気に過ごしていたものの、腎臓の検査をするとやはりデータは良くありませんでした。かかりつけの病院の先生からは、「この状態で妊娠、出産は無理ですよ。諦(あきら)めてください」と言われていました。「子どもが出来ないなら、また好きなバレーボールでも始めよう」とママさんバレーを始めた矢先のことでした。妊娠していることが分かったのです。でも、妊娠、出産を諦めるように言われていたこともあり、かかりつけの病院にある産婦人科には行きづらくて他の病院を探したところ、腎臓の持病があると、出産を受け入れてくれる病院は全くありませんでした。そんな中、「いい先生がいるから」と勧(すす)められたのは、結局、かかりつけの病院の産婦人科でした。(笑)

 診察をした先生の話では、「この状態なら、いずれは透析になる。妊娠の途中で透析になって出産ということもあり得(え)る」ということでした。でも、夫婦でこの説明を聞いて気持ちは固まりました。「透析を開始する時期が早いか遅いかだけなら、早く透析になっても構わない。子どもを授かることができるなら」と。


人工透析しながら出産へ

 

 腎臓治療をしながら赤ちゃんの様子を見るために入院し、妊娠4ヶ月目からは週3回の透析を受けることになりました。妊娠が進むにつれて、透析は週5回になりました。

 その病院では、透析患者さんが妊娠、出産した例が一度あっただけで、私のように妊娠後に透析を開始して出産するケースは初めてで、先生も手探り状態だったと思います。実際、透析中に貧血を起こして輸血をする事態になったこともありました。

 そんな状態でしたので、病室も産科ではなく、がん患者さんたちと一緒の6人部屋でした。産科で聞けるはずの「出産への心構え」のような話も「安村さんはいいですよ」と聞けず、知識も情報もないままでとても不安でした。赤ちゃんがどうなるかわからない状況だったということもあって、看護師さんたちも対処が分からなかったのでしょう。同室のがん患者さんたちにはいつも「頑張って、頑張って!」と励まされていました。それぞれに辛い状況だったと思います。その中で、お互いに笑い合って励まし合って、「この部屋で良かった!」と心から思うことができました。

 いよいよ出産が近づき「産科の方へ移ってください」と言われた時は、「もしかして産めるの?」と期待が膨らむ一方で、駄目かもしれないという覚悟もしていました。でも、病院の先生も看護師さんも、帝王(ていおう)切開(せっかい)での出産も視野に入れつつ、出産に向けて大事に、大事に見守ってくださっていました。

 それなのにある日、外泊中にちょっとした段差を踏み外して転倒してしまい、お腹が痛くなって慌てて車で病院に帰ったのですが、ワゴン車の揺れのせいもあってなのか、そのまま自然分娩で予定より1ヶ月くらい早く、元気な男の子が生まれました。元気な赤ちゃんの誕生を、みんな心から喜んでくれました。


母親の腎臓を移植(いしょく)

 

 出産後は一旦(いったん)透析から離れたものの、腎機能が悪くなり本格的な透析が始まりました。腎機能障害の障害者手帳を取得する一方で、もう一人子どもが欲しいという欲も出てきました。病院の先生にそのことを相談すると、「腎臓移植をした方がいいよ」と言われました。

 腎臓移植手術を受けたのは平成4年2月25日。今年で31年経ちました。ドナーは母親です。手術室に入る時、横のベッドにいる母の姿を見た時は、申し訳なさと感謝で、なんとも言えない気持ちになりました。無事に手術が終わり、透析中は全く出なくなっていた尿が出た時は、母も一緒になって喜んでくれました。移植後に口にしたお水、おもゆはとっても美味(おい)しかったです。移植をして本当の味を知りました。

 移植から9年目に、女の子を授かりました。妊娠が分かった時はみんな心配して、中学2年生になっていた上の子も「お母さん、そんな大変なこと2回もしなくていい!」って…。でも、行事で学校に行った時に、女の子たちが寄ってきて「おばちゃん、赤ちゃんおるんやねー!」って言いながらお腹をさすってくれたのを長男が見て、表情が和(やわ)らいだのが分かりました。

 担当医からは、「移植後の免疫(めんえき)抑制剤(よくせいざい)などのリスクがあります」と言われましたが、主人と「どんな子でも二人で協力しあって育てます」と伝えました。

 長男の時とは違って、今度は産科できちんと準備して、体制を整えて出産に臨(のぞ)むことができました。

 生まれた妹を、お兄ちゃんはすごく可愛がってくれました。36歳と22歳になった今も仲が良く、北九州マラソンに二人で出場して無事に完走しました。とっても嬉しそうでしたよ。


生きていて良かった

 

 腎臓病の患者さんは、出産を諦める人が多いと聞きます。もちろん患者さん一人一人、状況は違うけれど、「妊娠、出産は諦めて」と言われていた私の「妊娠、透析、出産」「移植、妊娠、出産」という流れが前例の一つとなって、後に続く患者さんの選択肢を増やせたなら嬉しいですね。

 私はこれまで、13の様々な手術を経験しています。壁にぶつかっては凹(へこ)んで嘆(なげ)く私に「大丈夫、大丈夫」と言ってくれるのが主人と子どもたちであり、どん底から這(は)い上がって来られたのは、その時々で周りの人に恵まれたからですよね。常日頃から一期一会(いちごいちえ)を大切にしています。

 腎臓移植の後、42日間、面会(めんかい)謝絶(しゃぜつ)で過ごした無菌室(むきんしつ)で、高熱にうなされ「ああ、もう駄目かも」と何度も思いながら、窓から見える月や星に「どうか治りますように」と毎日祈っていたこと。やっと外を歩けるようになった時、「ああ、生きていて良かった」と思ったこと。そんな経験も、糧(かて)になっているのでしょう。

 見た目にわからない内部障害は、周りの人の理解を得にくい場面があります。元気そうに見えても、長く立っているのは辛い。座りたいけど言いにくい。などはよく聞く話です。私はどうやら、こけても大丈夫と思われるくらい元気に見えるようですが、いえいえ、助けてください(笑)


ここまで本文です。

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