My Story マイ・ストーリー
誰もが自分の物語を生きている
京山 敏子さん
(きょうやま としこ)
《聴覚障害(ちょうかくしょうがい)》
「もしもし」だけの遊び
耳が聞こえなくなったのは、多分、2歳ごろ…いや、もしかしたら生まれた時からかな? 親に聞いたことはあるけど、覚えてないって言われたから、ほんとのところはわからない。仕事熱心な両親だったけど、その分、私のことはほったらかしだったかな。6歳の時、当時小倉にあったろうあ児施設「足原(あしはら)学園」の寮に預けられて以来、私は寮で育った。多分、両親は私をどう扱えばいいのかわからなかったんじゃないかな? わからないままだったと思う。
3歳か4歳くらいの頃、親が仕事に行っている間は、近所の人が面倒をみてくれていて、子どもたちともよく遊んでいたけど、自分が聞こえないことには気づいてなかった。
「遊ぼう」って言われたら「うんうんうん」って頷く。「美味(おい)しいね」って言われても「うんうんうん」。ただ、自分も「美味しい」って言いたいのに、どうしたらそれが言えるのかがわからなかった。
でも一つだけ言えたのが「もしもし」。みんなが電話で話しているのを見て、「もしもし」がやってみたくて、みんなのマネをしてダイヤルを回して、「もしもし~」って言って、何か言っているような音がしたら切る!(笑)今となっては本当に申し訳ないことだけど、それが当時の私の遊びだった。夏休みとか長い休みになると、一緒に遊ぶ子どもたちもいなくなってひとりぼっちだったから、毎日毎日電話で遊んでた。
「もしもしー」「〇△×…」 ガチャン!
「もしもしー」「〇△×…」 ガチャン!
延々とこの繰り返し(笑)何か言っているみたいだけどわからないから、「もしもし」って言うだけの遊び。
家族や親せきの中で
寮に入ったら、先輩たちがみんな手話を使っていて、不思議で珍しくてね。最初は手話の意味も、何を話しているのかも全くわからなかったけど、先輩たちに教わったり、マネをしたりしているうちに、手話も自然に覚えたかな。でも、ろう学校(現 聴覚特別支援学校)では、授業中の手話は禁止で、口話法(こうわほう)(※1)を教わった。知ってる? 顔の前に紙をかざして、「パッパッパッ」って(紙を息で揺らすように)発語(はつご)する訓練とかね。
2クラス合わせて18人くらいの少人数の学校だったけど、同級生や先輩たちと過ごした学校や寮での生活は楽しかった。まあ、時には先輩にいじめられたりもしたけどね(笑)
家族で聞こえないのは私だけ。両親は「聞こえない」ということに対して理解がなかったから、私が手話を使うと「サルみたいなことやめなさい」って言われて、家の中では口話か筆談(ひつだん)。――悔しかった。
月曜日から金曜日までは寮、土曜日には家に帰っていたけど、帰っても家族とのコミュニケーションなんてないし、親は怒ってばかり。なんで怒っているのか、私にはさっぱりわからない。ただ、怖かった。だから、いつも早く寮に帰りたかった。お正月とかお盆とか親戚が集まる場所も同じ。聞こえるみんなは、ワーって喋っているけど、自分一人だけ何をしゃべっているのかわからないし、つまらない。正月だから親戚の家に行くぞって言われても、憂鬱(ゆううつ)でしかない。ただ、お年玉は欲しい(笑)お年玉をもらう時だけはワクワクしたけど、あとはじっと黙って座っているだけ。そういう親戚の集まりが、一番苦痛でつまらなかったな…。これは私だけじゃなくて、周りの聞こえない人たちからもよく聞く話で、みんな同じような経験をしてる。ただ一つ良かったことは、私には従兄(いとこ)が多いのだけど、唯一、一番上の従兄だけが「僕も手話を覚えたい」って言ってくれたこと。私が手話を教えたその従兄は、今でも私を気にして時々ラインをくれる。―嬉しいよね。
若者と高齢者の交流を
もう少し、手話が使える人がいたらいいのにって思う。手話使うのって大変? 私にはわからないけど…。もし逆に、聞こえない人の方が多くて、聞こえるのが自分だけで、みんなが手話でワーって話していたら、何を話しているかわからないでしょ? わからないとつまらないでしょ? お互いさまよね。でも実際は、聞こえる人の方が圧倒的(あっとうてき)に多いから、そういう経験をすることもないだろうし。だから気づかないのかな。確かに、車いすの人や視覚障害の人と違って、聞こえないという障害は見た目にはわからない。だから、困りごとも見えにくいのかもしれないけど。
最近立て続けに聴覚障害の人を扱ったドラマがあって、それがきっかけなのか、若い人が集まる「手話(しゅわ)べり(※2)」の場も増えてきた。若い人たちが興味を持って、手話を覚えようと集まってくれるのは良いことだけど、同じ様にろうの高齢者のことも、もっと知ってほしいな。ろうの高齢者は、これまで苦しい経験をたくさんしてきた人たち。若い人が学べることがたくさんあるし、逆に高齢者が、若い人から教わることだってある。今は若い人たちだけが集まって手話べりを楽しんでいるけど、それはちょっともったいない。若い人と高齢者が、一緒に交流できたらもっといいのになって思う。もっと、ろうの高齢者にも目を向けてもらえたら―
ろうの高齢者のドラマを作るのはどう?恋愛ドラマでもいいんじゃない?(笑)
「陽(ひ)だまり」に込めた思い
私は平成14年にヘルパーの資格を取得したのを機に、ろうの高齢者が集まって交流できる場所を作ろうと活動を始め、平成16年に「ろう高齢者の豊かな生活を支える会 陽だまり」を仲間と立ち上げた。高齢者の困りごとを無くして、楽しく笑顔で過ごしてもらいたくて―。「交流の場」はその後小規模(しょうきぼ)共同(きょうどう)作業所になり、NPO法人格(ほうじんかく)を取得し、現在は地域活動(ちいきかつどう)支援(しえん)センターへ移行した。ろうの高齢者の生活を支援する事業所は、北九州に一つだけ―。福岡市には、九州で唯一の聴覚・言語障害者専用養護老人ホーム「田尻苑(たじりえん)」があって、職員さんとも手話でコミュニケーションができる。北九州にも「田尻苑」のような、老人ホームがあればなあ…って思う。今、ろうの独居(どっきょ)老人が多いし、仲間がいても施設に入る時にみんなバラバラになって、入った施設でまた孤立しているから…。
新型コロナの影響で難しくなったけど、「陽だまり」の活動で、ろうの高齢者が入居している老人ホームへ「話し相手ボランティア」に行っていた。普通の老人ホームは、聞こえる人ばかり。「一人で寂しい」「帰りたい」という声をよく聞く。手話を少し知っている職員さんがいたとしても、「美味しい?」くらいで、「美味しい」と言えば終わってしまう。会話って、普通はもっと続くものでしょ? 私でも、それは寂しい。
以前、手話を知らないろうの利用者さんの所へ行ったことがあった。暗い表情で来た人を警戒して、10分もすれば「帰れ帰れ」って。でも「わかりました~。ではまた来週ね~」って、その人の気分や体調に合わせて話すようにして何度か通ううちに、段々とその人も手話を使うようになった。すると、表情が変わってきた。1時間くらい話し込むようになって、よく笑うようになった。
怒りん坊もいる、いきなり帰れって言う人もいる。でも、無理強(むりじ)いせずに、その人その人の状況を掴んで寄り添えば、変わってくる。コミュニケーションがどんなに大切かってことだと思う。
次の世代へ!
今一番の心配は、「陽だまり」を引き継いでくれる若い人が現れてくれるか?ということ。地域で手話を広めようと頑張ってきた仲間も、みんな高齢になってきたから…。上の世代からは、色んなことが学べる。私も未(いま)だに先輩たちに怒られる(笑)挨拶をきちんとしなさい、もっと丁寧な表現をしなさい、とかね。でも、注意してもらえるのは嬉しい。学べることは幸せ。上の世代から学んだことは、下の世代へ伝える。これを続けていかなくちゃ。
気づけば20年、周りの事を考えて走ってきたけど、年齢を考えると、そろそろ自分の時間もほしいと思う。旅行にも行きたい。世界旅行もいいな!
…でも、老人ホームへの話し相手ボランティアを再開したい。地域の人との交流のために、手話カフェを立ち上げたい。聴覚特別支援学校に行って、子どもたちと、ろう高齢者の交流の機会を作りたい。アレもしたい、コレもしたい(笑)
まずは高齢者の笑顔のためにも、「陽だまり」がなくならないようにしないとね。思いが途切れてしまわないように、後に続く若い人を探さないと!
だって、北九州に一つだけの施設だから。
※1 口話法:音声言語に基づいて言語を教える方法。補聴器を活用する聴能(ちょうのう)、話し手の口の動きや表情を読み取る読話(どくわ)、正常な発音器官を訓練しての発語の要素からなる。
※2 手話べり:手話を使ってお喋りすること。