My Story マイ・ストーリー
誰もが自分の物語を生きている
田原 直平さん
(たはら なおひら)
《視覚障害》
避(よ)けてくれ!
視覚障害は先天性です。僕が生まれたのは、戦中の混沌とした時代でね。食糧も充分になくて、僕を身ごもっていた母は栄養障害になっていたらしいから、おそらく僕の目もその影響だったんじゃないかな。
今は全盲ですが、子どもの頃は右目の視力が0.03くらいあって、小学校までは普通校に通っていました。教科書も目を近づけて時間をかければ読めていたけど、濁点や丸は分かりにくくて苦労しました。漢字のとめやはねも分からないから、漢字を正確に書くのも難しかったですね。図画の授業で、先生から「写生は出来ないだろうから、好きな絵を描きなさい」と言われたことや、下級生たちが楽しそうにキャッチボールをしていたことを覚えています。羨ましく思っていたんでしょうね。
少し見えてはいたものの、距離感が全く分からないから随分と危ない目にも遭いました。走ってくる自転車を避けきれずにぶつかったり、水が無いと思って庭の池に飛び込んで姉たちを驚かせたり、跳び箱でジャンプし過ぎて頭から落っこちたり。ある時の早朝、道路を渡っていて無灯火(むとうか)のトラックが向かってきた時は怖かった! もう一か八かで、僕、道路の真ん中でじっと動かずに立ってました。「僕を見つけて避(よ)けてくれ!」って祈りながら―。避けてくれたから今いるんだけどね(笑) また、駅で発車のベルを聞いて急いで改札を抜け、走ってそのまま動き出した汽車にぶつかったこともありました。駆けつけた駅員さんに「命は大切にせないけんよ」って叱られました。あの時、ホームと汽車の間に落ちていたら終わっていたんだもんね。
そんな話ならたくさんあるよ。話し出したらこの取材、今日1日じゃ終わらないよ(笑)
ポケットの中の点字
母は、僕にどこか負い目があったんじゃないでしょうか。僕にあまり、あれこれさせなかったんですね。おかげで僕は、小、中、高校と、学生時代は消極的で無口でね。友だちと連(つる)むより、気が向かなきゃ学校をさぼって一人で行きたいところへ行くような、そんな子どもでした。
中学からは盲学校(現 北九州視覚特別支援学校)に入って、寄宿舎生活を送っていました。2年生になって最初の国語の授業の時でした。点字の教科書を目で読んでいたら、『点字は指で読め』と先生に言われたんです。そこから点字を指で読む練習が始まりました。数か月で点字が読めるようになると、がぜん勉強への意欲が湧いてきてね。成績が飛躍的に伸びました。
寄宿舎は夜9時になると消灯で、冬の夜は練炭火鉢(れんたんひばち)も撤収されてしまうんです。そんな時は、寒いから押し入れの中に点字の教科書を持ち込んで試験勉強をしたものです。戸を閉めて真っ暗にしても、点字は読めるからね。
当時僕は、勉強した内容を点筆(てんぴつ)でノートにまとめるのが得意でね。先生にも褒められていました。汽車に乗っている時も点字のノートを読みたいけど、ノートを広げると目立つし人目も気になるから、点字のノートを上着のポケットに入る大きさに切って、ポケットに手をつっこんで読んでいました。そんな風にしていたら僕、高等部で首席になりました。
僕の父は、僕が小学校4年生の頃までは炭鉱に勤めていてね。炭鉱が全盛期の頃の管理職だったから、筑豊の庭付きの屋敷で、割と裕福な暮らしをしていたんです。でも、炭鉱を辞めて手を出した事業に失敗して、そこから一気に貧しくなりました。僕が中学部から高等部の本科(3年間)を終え、専攻科(2年間)へ進級する頃になっても家計は苦しいままでした。高等部2年から野球部に入って、早朝も放課後も部活に励んでいたけど、合宿に参加するための費用を親に言い出せず、結局は退部しました。卒業後は大学へ進んで、さらに理療を勉強して教員になるという道もあったけど、進学は諦めて、働くことにしました。
到津遊園地(いとうづゆうえんち)に行きたい
卒業後は自宅で開業していましたが、大家に立(た)ち退(の)きを迫られて3年で廃業しました。その後、同級生の治療院で2年ほど世話になり、再び開業した頃、ある整形外科医院での勤務を依頼されました。開業したばかりだったし、何度か断ったけど、結局その医院に就職することになりました。そこで、同業だった今の女房と出逢いました。
29歳で結婚して、やがて長女が生まれました。結婚して家庭を持つと、安定した生活を考えるようになって、次第に開業には踏み切れなくなりましたね。
長女はね、4歳の時に亡くなったんです。神経芽細胞腫(しんけいがさいぼうしゅ)。小児がんです。発症は2歳の時だったんですが、当初はポリオ(小児麻痺(しょうにまひ))と診断されて足立学園(あだちがくえん)(現 北九州市立総合療育(そうごうりょういく)センター)まで通院していました。家からは結構遠くてね、お金がないからバスで、ずいぶん時間をかけて往復していました。
ある時、女房が小さな声でつぶやきました。「到津遊園地(現 到津の森(いとうづのもり)公園)に行きたい」
僕、その言葉にハッとしてね。それまで僕は、とにかくがむしゃらに仕事をしていました。生活のため、家族のためではあったけど、仕事ばかりだった。家族で遊園地に行く、そんな潤いもないような働き方じゃダメだと気がついたんですね。仕事一辺倒(いっぺんとう)だった僕の、転機になった言葉でした。
娘ががんだと告げられた時、泣き出した女房を見て娘は慰めたそうです。「お母さん、泣きなさんな」って―。娘が4年半の短い生涯を閉じるまで、女房はつきっきりの看護をしていました。子どもに先立たれる悲しみは、到底言葉で表現できるものではありませんが、それでも、前を向いて行かなければね。女房とだったから、それが出来たのだと思います。その後二人の娘に恵まれました。紆余曲折(うよきょくせつ)はありましたが、二人ともすっかり大人になって、それぞれの道で頑張っています。
感謝の気持ちを忘れない
人生には分岐点がありますね。僕の場合、大学や治療院開業の方へは進みませんでした。もしあの時大学に行っていたら、もし開業していたらと思うこともあるけど、とにかく73歳までの40有余年の間、仕事だけは真面目にやってきましたから、そう思える今は、何の後悔もありません。
消極的で無口だった僕が、ずいぶん変わったものだなとも思います。それは、仕事で患者さんといろんな話をする中で、変わってきたのかもしれません。消極的で無口な性格は、考える力を養ったんじゃないでしょうか。人の気持ちや立場を考えるようになったし、聴き上手にもなったんじゃないかな。
若い人には勉強はしっかりした方がいいよと伝えたいですね。あはき(*)も極めると人のためになるんです。どこで診てもらっても駄目だったという患者さんが、僕の治療のあと「あー楽になった」って喜んでくれると、僕もそれが嬉しくて励みになったものです。あはきは、人に喜んでもらえる仕事なんですよ。
これまでの僕の治療や言動で、多くの人のお役に立てたなら嬉しいし、これからも一人でも多くの人のお役に立てるように生きていきたいですね。
そして感謝の気持ちを忘れないこと。当たり前のことなんて一つも無いんです。社会の中での権利を主張することも必要だけど、僕は「ありがとう」の気持ちも大切だと思っています。卑屈になるのではなくてね。
ある時、町で僕が一人で立っていたら、どこからか小学生くらいの子どもが駆け寄って来て「おいちゃん、どうしたと?」って聞いてきました。同情ではない、無垢な「大丈夫?」が伝わってきました。ありがたいよね。
あとね、僕はこれまでの人生を共に歩いてきてくれた女房にも感謝しています。娘たちが小さな頃は、私に負担をかけないように、女房は自分が外出する時はほとんど子連れで出かけていました。「食べさせてもらっているから」って。僕への信頼と、家族の絆を感じたものです。なかなか面と向かっては言えないけど、僕がこうしていられるのは女房のおかげだと思っています。
最後に紙面をお借りして―。
妻よ、金婚式も過ぎ、長い間ついてきてくれてありがとう。これからもよろしくお願いします。ありがとう。
これ、しんしょうだよりが出来るまで、女房には内緒にしてね(笑)
*あはき…あん摩(ま)マッサージ指圧(しあつ)、鍼(はり)、灸(きゅう)の頭文字をとって略した専門用語。